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見えない束縛

家族間の中には、見えない束縛が存在し、

心の中には無意識の思い込みが、いくつも存在します。

 

わかりやすいものも数多くあります。

これを読んで、ふと頭に浮かぶものがあるなら、

すでに意識上に上がっている、まあまあ大丈夫なものたち。

 

やっかいなのは、気づけないままの、それらです。

 

ただ、気づきにつながる出来事は日常にゴロゴロ転がっています。

 

私の場合、

例えば、父の手術前のちょっとした出来事。

 

心筋梗塞の報せを受け、駆けつけたとき、

母が言ったのです。

 

「わざわざ九州から来るなんて、自分の病状が

そんなに悪いのかとお父さんが不安になるといけないから、

美由紀は友達に会いにきたついでに

お見舞いに来たということにしておくね」

 

「・・・・」

 

父を思うゆえの母の配慮であり、

母の心を不安定にもしたくなかったので、

「いいよ」と、了解する私。

 

 

そして、その通りに母が父に伝えると、

父は、私の顔を見て、「まったくこんな時に」と、吐き捨てるように、

友達優先なんて親不孝な奴だと言いたいような、

とても嫌な顔をしたのです。

  

「心配して駆けつけたよ」と本当のことを言ったなら、

父の心は満たされたはず。

これが最後にならず、幸いでした。

 

母に悪気はなく、配慮とか善意が前に出ているため、

モノ申すことができない、真綿のようなわかりにくい縛り。

 

微妙に悪者?クッション材?にされるというか、

私を使って何か事を収めるという感じは、

幼い頃から繰り返されていたようです。

 

私自身も、私が利用されることで、

丸く収まるなら別にいいよと、

自ら、引き受けてきたところもあります。

 

厳しかった祖父母の手前、

母を助けたくて、長年許容してきたから、

それらは暗黙の当たりまえになっていて、

その役割が私の一部になってしまっているのです。

 

自分が引き受けることで、

大事な誰かを助けられるのだと、

それが私の生きる価値なのだというような

無意識の思い込みもあるでしょう。

 

やっかいなのは、家族間だけではなく、

外での人間関係、

学校やグループ、所属する集団の中でも、

同じように、同じ役割にスポッとはまることです。

 

振り返れば、

「私のせいにしておけばいいよ」と

「私がやったことにしておくよ」と

友達や家族、近しい人のために、

たくさんの泥を自らかぶり、

代わりに引き受けてきたなあと思います。

 

濡れ衣を着せられたことも多々ありましたが、

多くは、自分でやってきたのです。 

 

他者の責任をとるのは、被害的でもヒーロー的でもなく、

バウンダリーを超えていく行為なのだと

気づくのに時間がかかりました。

 

こういった自分の癖をわかっていても、

同じ穴を用意されると、うっかり、時にははりきって、

何度でも入ってしまう私です。

 

許容し続けて、一部壊れてしまっているバウンダリーを

修復しないといけません。

  

足元の修繕は、人生の修繕につながります。

 

バウンダリーの穴を修繕してみると、

やっとエネルギーが貯まっていくのを実感します。

 

 

無意識の束縛に気づいて、そこから自由になり、

エネルギーが満ちてくると、

世界の見え方が変わります。

 

美しい花が視界に飛び込んできます。

 

7月8月は、無意識の束縛とバウンダリーがテーマです。

よろしければお越しください。

一緒に気づいていきましょう。