昨年の夏、我が家で半月ほど過ごしたとき、
父と母は本当に大喜びで、心身ともにだいぶ良くなったようで、
(その時のブログはこちら)
母は、慢性的な便秘で薬が欠かせなかったのが、
我が家での滞在中は、薬を飲まなくても毎日お通じがあることに、
こんな嬉しいことはないと、大喜びしていたのに、
父は、帰ってから、
「九州はいいなあ。何もないと思っていたけど、愛知よりいいなあ」
「また行きたい。一人で行こうかな」と、
繰り返し言っていたのに、
母は、我が家にいたときに、薬を飲まなくてもお通じがあった事実を
まるごと忘れていて、以前通り便秘に悩んでいて、
父は、「九州行ってもつまらんからな。愛知がいい」
と、来る前の発言に戻っていて、
生活習慣も、食事も、思考も、全てが元に戻ってしまっていることに、
唖然としました。
習慣が戻ってしまうことは想定内だったけれど、
変容していい結果を出していた事実すら忘れてしまうのだと。
そんなものでしょう。
セラピーの仕事を続けていると、
そういう場面には割と出会ってきたので。
どれだけいい成果が生まれていても、
どれほど感動していても、
距離ができ時間が経ってしまうと、
まるでなかったかのように、
流れてしまうことはあるようです。
昔から長く慣れ親しんできたほうを、
本当は自分自身をどれほど苦しめるものであるとしても
馴染み深いから、容易だから、
無意識につかんでしまうのです。
本人も気づかぬうちに。
他人事ではなく、私だってそうなのです。
だから、変容は難しい。
だからこそ、変容するとしたら、奇跡的に素晴らしいことかもしれません。
バート・へリンガー氏の妻、ソフィー夫人が、
幸せの歩みは痛みが伴う、と語っていました。
「おかしなことに、その助けは、あなたが行きたくなかった方から、
見たくなかった方からくる。
なのに、いつも正反対のほうへ動いてしまうのが人間。
だから幸運や健康が遠ざかる。
日に日に 年々、そして最後に見失ってしまう」
<ファミリーコンステレーション 健康への道より>
盲目的に、変容に進めない人たちが多い中、
選択肢が見えているなら、ありがたいことです。
それを、母と父は、生きてきたその時代の中で、
酷使してきたその身をもって、
教えてくれているのかもしれません。
母と父の分まで、
私は、幸せの歩みのほうに、
進んでいこうと思います。
見たくなかったほうへ。
共に歩んでくれる人たちと、痛みを分け合いながら。