娘のいるお父さんたち(おそらく皆、50代もしくは60代?)に、話を伺う機会がありました。
こういう時というのは、不思議と続くものです。
クライエントさんというわけではなく、ただの雑談の流れから、です。
話題は、娘さんについての愚痴、苦言。
耳にひっかかるのは、その言葉の使い方。
なぜそんな言い方なんだろう。
なぜその言葉なんだろう。
でも、そういう口の悪さは、いろんなところで耳にしてきたもの。
うちの父も口は悪いほうだし、
定年退職したおじさんたちの中には、
今だったら訴えられそうな発言をいまだに平気でする人もいる。
昔々の小学校時代、からかったり、いじめたりしてくる男子も
わざわざ人が傷つくポイントを言葉で責めてきたっけ。
悪気はない、テレカクシかもしれない、
単なるイジリであり、深く考えてない、つい出てしまった言葉であったり、
ただの言い方の癖の場合もある。
そういえば、ひどい言い方をされてきた男子に、
数年後告白されたことがあって、その時は言葉を失ったことを思い出します。
だから、発する言葉は全てではないことも、よくわかっています。
それは、きっと私にもあり、
自分では気づきにくいレベルで、誰にでも大なり小なり、あるものでしょう。
それでも、
ダメ出し、突っぱねる、切り離す、
<ように感じられる>強めの口調が投げ込まれると、
触られたくないポイントをえぐられると、
聞き手からすると寂しさや悲しさや、
痛さや、腹立たしさを、感じてしまうでしょう。
リアルタイムに娘さんの感情に接してたから、より強く感じたのでしょう。
ある日、帰る途中、車の中で、泣けてきました。
なぜなら、それでも、
口の悪さの裏にある
確実に存在する
娘への「愛」が、見えるから。
なのに、伝える術がずれてしまっていて、
そして、受け取る側も、きっと見えないし、見ないし、受け取らない。
大きな空気の層が断絶しまっているような現状。
そこにたゆたう、寂しさと切なさ。
そして、それは、
私自身が息子に対して放った言葉も
息子からすると、おそらく同類なのだと、気づいたのです。
全くそんなつもりはない言葉でも受け取り側の癇に障ることがあって、
180度違う言葉に変換されて受け取られることもあって、
すれ違ってしまって。
そして、これは、あらゆるところで、きっとよく起きている。
気を付けて見なければ、
本当のことなんて、なかなか見えないものかもしれません。
本当の気持ちを届けられないし、本当の気持を受け取れないのかもしれません。
私たちが見ているものって、何だろう。
ありのままの世界を見ているつもりでいても、
実は自分で色付けた世界を各々が見ていて、
すれ違っている現状が日々あるのかもしれません。
本当の気持ちからは遠い数々の言葉のやりとりに
埋もれてしまっている「愛」を見ていけたらいいなと思うのです。
相手の中にも、自分の中にも。