ワンコとの朝の散歩は、小学生の登校時間と重なることが多く、
たくさんの子どもたちと顔見知りになります。
7年の月日を朝歩いているので、当然子どもたちも成長します。
無邪気にワンコを可愛がって離れなかった子たちも、
軽い会釈になって、距離間ができていくのは少し寂しいものですが、
健全な成長の在り様です。
この辺りは、通学班はないらしく、
黄色の帽子とランドセルカバーをつけた
ピカピカの1年生にお母さんが一緒に歩いていく姿も
よく見かけますが、
いつの間にか、黄色い帽子もカバーも外し、
一人で元気に通学している姿にキュンとしたりしています。
そんな顔見知りさんの中に、
毎日、男の子を送り届けている、生真面目そうなおじいさんがいます。
杖をつきながらも、品よく帽子をかぶり、ピンとした背筋。
いつも挨拶しますが、笑った顔は見たことがなく、
世間話も一度もしたことがありません。
今朝すれ違った時、男の子が随分大きくなっていることに
気づきました。
たぶん、もう4,5年生ぐらいでしょう。
黒縁の眼鏡をかけて、彼もまた生真面目そうです。
おじいさんが歩く後ろを、少し離れて、
静かに歩いています。
いつも、おじいさんが前面に堂々といるせいでしょうか。
男の子の存在感があまりなく、
こんなに成長していたことに、目がいかなかったのです。
おじいさんの背中は老いているのに、細いのに、
男の子にとっては、大きすぎる存在なのかもしれません。
「一人で行く」と、言えないほどに。
その背中の語る世界が、絶対的に正しいのだと、
子どもの頃は信じ切ってしまう場合があります。
絶対的な存在だと思い込み、
逆らうことなんて選択肢にない場合があります。
そうしないと、家の中で居場所がなくなるかもしれないし、
そうしないと、認めてもらえない、愛してもらえないから。
そうして、自分をなくして、
養育者の言うがままに
いい子として生きてしまうこともあります。
いくら尊敬していても、いくら愛してもらっても、
いくら恩があっても、
おじいさんはおじいさん。
親は親。
私は私。
別々の存在です。
私には私の考えがあっていいし、
私の価値観があるのが当然です。
私がしたい生き方を選択していいし、
もっと楽しんでいいのです。
男の子が、颯爽とおじいさんの背中を超えていく日を
願ってやみません。
走って、その背中を追い越していったなら、
きっとイキイキとした新しい世界が広がっているでしょう。